●『アマデウス』の紹介とあらすじ チャオ、サリエリです。今回ご紹介するのは、『アマデウス』という映画だよ。1984年のアメリカ映画で、第57回のアカデミー賞において作品賞、音響賞など8部門に輝いている名作なんだ。主人公は実在の作曲家で、私サリエリとウォルフガング・アマデウス・モーツァルトのふたり。老境のサリエリが神父に向かって告解するという形で、その生涯と、特にモーツァルト君との関係について語っていくという内容になっている。 『アマデウス』のサリエリは音楽を愛しているが、モーツァルトというきらめく才能に出会い、自分が凡人に過ぎないものと打ちのめされて、にも関わらずモーツァルトが下品で粗野な男であることにひどく困惑する。そしてモーツァルトに対する愛と憎しみをこじらせて、ついには彼を殺そうと計画を練り、彼自身のためのレクイエムのための作曲を依頼する。だけどそのレクイエムは完成せず、モーツァルトは貧苦の中に病没する――。そういう筋書きなんだ。 ●サリエリとモーツァルト まず私の個人的な感想を言うと、作品全体は大変よく出来ている。劇中の音楽もとても素晴らしい。だけど誰にもお分かりのようにこれは「私サリエリのために作られた作品」ではないんだよね。この作品は正直に言えば忘れられていたサリエリの名前を世に蘇らせてくれたし、再び注目を集めるきっかけを作りもしたけど、決して私を良くえがいてはいないからね。 まず一番最初に、この話からさせて欲しいんだけど、私がモーツァルト君を毒殺したという噂がウィーンで流れた事があったんだ。私の晩年のことさ。でももちろん、私はやっていないし、やっていないとずっとそう言ってきた。いや、一度同じイタリア出身で同業のロッシーニ君にまであなたが殺したんですかと聞かれたときには参ったものだけど、やってないものはやってないんだ。それが証拠に、例えばモーツァルト君のもと弟子で、そのあとで私の弟子になったフンメルとジュースマイヤーという音楽家がいるんだよね。あともう一つ、モーツァルト君の末の子供でフランツという子がいて、その子ものちに私の弟子になった。モーツァルト君の奥さんの、コンスタンツェさんに頼まれて引き受けたんだ。もし私が本当にモーツァルト君を毒殺したのだったら、コンスタンツェさんにせよ私にせよ、そんなことをしたと思うかい? モーツァルト君と私は同時代の同業者で、だからもちろんライバル関係には違いないけど、『オフィーリアの健康回復に寄せて』という作品を共作した事もあったし、特に彼の晩年には色々親しい交流もしていて、私の方では彼と親友になれたとさえ思っているんだよね。モーツァルト君の方が私をどう思っていたかは今となっては分からないけどね。 ●皇帝ヨーゼフ2世について もう一つ、これをどうしても言っておきたい事があるんだけど。それは私の皇帝、ヨーゼフ2世陛下がひどく楽器演奏の下手な人物として描かれてしまっている点についてなんだ。実際の陛下は、私と楽器を協奏できるほどの腕前の持ち主だったんだよ。実際よく一緒に演奏していた。もちろん芸術に対する審美眼もとても優れていた。この事はぜひ覚えておいてね。 それに、モーツァルトは天才でサリエリは凡人だというのがこの作品のテーマになっているわけだけど、私ではなくて私の陛下の名誉のために言わせてほしいんだよね。陛下は凡人を宮廷楽長にすえるほど凡庸な君主ではなかったし、たとえお気に入りの芸術家に対してでも、常に厳しい態度でその才能を示し続けることを求めていたんだ、っていう事をね。私サリエリは、私の生涯をかけて、私を引き立てて下さった陛下の期待に十分お応えする事ができたと、そう信じているよ。 ●甘党サリエリ ところで映画の中のサリエリについてだけど、ひどく食いしん坊で、甘い物が大好きな男として描かれているね。これは正直なところ、実際にその通りだ。映画の中に出てくるカペッツォリ・ディ・ヴェーネレ、つまりヴィーナスの乳首と呼ばれているお菓子だけど、これは私のふるさとの名物なんだ。映画では栗のブランデー漬けって言ってるけど、マロングラッセたっぷりで焼き上げたガナッシュに洋酒を効かせて、ホワイトチョコレートに包んだものだよ。私の大好物さ。 ただ、映画の中のサリエリは独身貴族のようだけど、実際には私には奥さんと娘がいたよ。晩年に年に勝てなくて入院したときも、娘に勧められてウィーン総合病院に入ったんだ。 ●モーツァルトの暮らし ところでモーツァルト君は映画の中でひどく貧乏に困っているね。実際、ほうぼうに借金があったのは本当だ。でも史実のモーツァルト君の生活が苦しかったかというとそれは微妙なところだね。実は彼が亡くなった後でコンスタンツェさんから色々聞かせてもらった事があるんだけど、彼にはひどい浪費癖があったんだ。仕事に困るようなことはなかったし、収入も十分あったんだけど、稼ぐはしから全部使ってしまっていた。その辺は映画の中でも同じといえば同じだね。 ただ、これは彼だけの問題ではないんだけど、そもそも私やモーツァルト君の時代、作曲家が作曲活動をメインにしてそれだけで生計を成り立たせるということはあまり一般的ではなかった、という事もあるんだよね。作曲家が特に教会や王侯貴族などに仕えることなしに作曲だけで生活するのが一般的になるのは、だいたい私の愛弟子のシューベルトあたりからのことになるからね。 そして迎える終幕、モーツァルト君は若くして病に倒れ、私も実際に参列した質素な葬儀の後、共同墓地に埋葬される。これはだいたい本当の事で、彼の墓のありかは今も分かっていない。本当に痛ましい、気の毒なことだと思っているよ。ただ、彼の名誉のために説明しておくと、当時のウィーンではよほどの金持ちや王侯貴族以外は、共同墓地に埋葬されるのが普通だったんだよね。なんだけど、そういった風習はモーツァルト君の死後まもなく廃れてしまって、私が老人になる頃にはたとえ貧乏人でも自分の墓を持てるのが当たり前になっていた。だから、モーツァルト君が格別不遇な末路を辿ったというより、時代の巡り合わせが悪かったと言った方がいいかもしれないね。 ●結びによせて~才能と嫉妬について~ 最後に話をまとめるよ。映画『アマデウス』は映画史上にその名を刻む傑作で、モーツァルトとサリエリの関係についての新たな神話を20世紀に築き上げた作品だった。それは認めよう。ただ、この作品が主題としている天才と凡才の対立であるとか、芸術家同士の嫉妬であるとか、そういったことは私にはよく分からないんだよな。 確かに、音楽家の世界に才能やそれに対する嫉妬がないわけじゃない。私の教え子だったベートーヴェン君もね、ロッシーニ君の才能と成功を妬むようなことを口にしていたよ。でもね、我々は誰だって才能があり、誰だって努力をしてきている。そして、その二つ以上に必要かもしれないものは、人生における幸運や、教え導いてくれる師との出会いなんだ。ガスマン先生やグルック先生がいなかったら、私がオペラ作曲家として成功することはなかったろう。なんだけど、『アマデウス』のサリエリにはガスマン先生もグルック先生もいないかのようなんだよね。もし私がこの『アマデウス』のサリエリと出会う事があったなら、師となって教え導いてあげなければいけないと思うほどだよ。 さて、というわけで『アマデウス』の話でした。じゃあ、またね。