①クラシック音楽の原点となった教会音楽 西洋におけるクラシック音楽のルーツは、9〜10世紀頃に成立したと伝えられるグレゴリオ聖歌とされているよ。聖歌とはキリスト教の礼拝で、ラテン語で書かれた聖書にある言葉や神への祈りの言葉に抑揚をつけて語ったことに由来するんだ。グレゴリオ聖歌の登場以前から、キリスト教の教会では地域ごとにさまざまな聖歌が歌われていたんだけどね。6世紀末から7世紀初頭に在位していたローマ教皇のグレゴリウス1世が教会制度を整備した功から、聖歌もグレゴリオ聖歌と呼ばれるようになったんだ。キリスト教がヨーロッパ全士に普及していくのに伴い、グレゴリオ聖歌は西洋音楽のあらゆる基盤となっていった。そこから、ルネサンス、バロックと西洋音楽は発展していくんだ。始めに祈りありき、音楽の根源には常に人の想いがあるんだね。 ②スメタナの人生が込められた弦楽四重奏曲 チェコの作曲家であるベドルジハ・スメタナが1876年に完成させた『弦楽四重奏曲』第1番「我が生涯より」は、その副題からもわかるように、作曲者自身の半生が音楽によって回想されているんだ。この曲が生まれる以前、1874年頃からスメタナは全身に発疹が出たりめまいの症状に悩まされるようになってね。やがて耳の調子が悪くなり、幻聴や耳鳴りにも苦しむようになった。そして、とうとう最後には聴力をほぼ完全に失ってしまうんだ。その結果、スメタナは指揮者としての仕事を失ってしまうけれど作曲を続けた。そして生まれたのが、『弦楽四重奏曲』第1番「我が生涯より」だったんだ。まさにこの曲には作者自身の生涯における幸福と不幸、栄光と悲劇のすべてが込められているといえるね。例えどんな苦難を背負おうとも、決して旋律を辿ることをやめられない…それが音楽家なんだ。 ③現実より夢を重視するロマン主義音楽 ロマン主義、あるいはロマン派とは、18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパ各地で盛んになった芸術思潮の呼称だよ。音楽、絵画、文学など当時のさまざまな芸術のジャンルでロマン主義は花開いたんだ。このロマン主義の特徴といえば、現実にはない空想の世界を求めるところだね。ロマン主義の芸術では、エキゾチックな異国や遠い過去の時代、夢、子ども、魔法、民話などが重要な題材となったんだ。そして、音楽におけるロマン主義を代表する作曲家が、ドイツのロベルト・シューマン。シューマンが作った曲のなかでも、ピアノ小品集である『子どもの情景』は、ロマン主義音楽を代表するものとされている。なかでもよく知られているのが7曲目のトロイメライ。この曲のタイトルは、まさに現実より夢に憧れたロマン主義らしいものといえるね。私の弟子だったシューベルトやリストもロマン主義に属する音楽家とされているよ。 ④敬愛する先輩作曲家に献呈された交響曲 オーストリアの作曲家アントン・ブルックナーが1873年に作曲した『交響曲』第3番は、「ワーグナー交響曲」の通称でも知られているよ。これはブルックナーが作曲の途中で、敬愛する先輩作曲家のリヒャルト・ワーグナーの家を訪ねこの曲を献呈したいと申し出たからなんだ。ワーグナーがこれを快諾したため、『交響曲』第3番は「ワーグナー交響曲」とも呼ばれるようになった。ブルックナーの楽譜を見たワーグナーは、「私はベートーヴェンに到達する者をただひとり知っている。ブルックナー君だよ」と絶賛したと伝えられているんだ。ところでブルックナーの『交響曲』第3番は何度も改訂を繰り返しやっと第3稿で大成功したんだけどね、現代では失敗したとされた第1稿や第2稿を好んで演奏する指揮者もいるんだよ。作曲家としては複雑だけど…愛されるのは良いことさ。 ⑤完成までに21年もの厳月がかかった交響曲 ドイツの作曲家であるブラームスが1876年に発表した交響曲第1番は、彼の代表的のひとつであり、いまでも演奏される機会の多い人気の高い交響曲だ。ブラームスがこの曲の作曲を最初に思い立ったのは22歳のとき。しかし、完成したのはそれから21年後の43歳のときだったんだ…当時の音楽界では交響曲を発表してはじめて一人前の作曲家として認められるという風潮があってね。ブラームスも交響曲の作曲に取りかかるけれど、ドイツ音楽の伝統を継承し発展させねばならないという重圧に加え自分に厳しい自身の性格もありなかなか作曲は捗らなかったんだ。このとき、ブラームスが特に意識していたのがベートーヴェンだった。ベートーヴェンの交響曲に並び立つ傑作を書かなければならないというプレッシャーに、プラームスは苦しんだんだ。それでも完成した「交響曲」第1番が初演されるとベートーヴェンの交響曲を正統的に継く作品と絶賛され、これまでの苦労も報われたんだよ。 ⑥イタリアの史実にもとづいた愛国心を鼓舞するオペラ オペラ『レニャーノの戦い』は、イタリアのロマン派音楽の作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ が作曲し、1849年に初演されたオペラだ。この戯曲は12世紀後半のイタリアの史実にもとづいているよ。この当時、神聖ローマ皇帝であるドイツのフリードリヒ1世は北イタリアの都市国家を武力で押さえつけようとしたんだ。しかし1176年、イタリア都市同盟軍は侵攻してきた神聖ローマ帝国軍を打ち破った。これが「レニャーノの戦い」だ。この勝利によって、イタリアの都市国家群はフリードリヒ1世による北イタリア支配の野望を打ち砕いたんだよ。イタリアは数多くの都市国家に分裂し、そのためにずっと周辺強国の干渉に苦しみ続けていた。そのような歴史のなかで、「レニャーノの戦い」はイタリア人にとって「イタリアが連帯して外国支配に勝利した戦い」として強く意識されるようになったんだ。そしてヴェルディが生きていた時代に、イタリアでは長きにわたった分裂状態を解消しひとつになろうとする国家統一運動の機運が盛り上がっていた。そのような世相のなかで、この愛国オペラは作曲されたんだ。 ⑦作曲家にとって鬼門である9番目の交響曲 オーストリアの作曲家であるグスタフ・マーラーが1910年に完成させた『交響曲」第9番には、ひとつの大きな謎があるんだ。実はこの曲はマーラーが9番目に作曲した交響曲ではなく、10番目に作曲されたものなんだ。マーラーは、1907年に自身にとって9番目となる交響曲を作曲した。しかしその曲には番号をつけず、『大地の歌』とだけ名づけた。マーラーが番号をつけなかった理由は第9番の交響曲が不吉だと考えていたからだ…といわれているよ。当時、クラシックの作曲家にとって9番目の交響曲は死を予感させるものだったんだ。そこでマーラーは9番目に作曲した交響曲に「大地の歌」と名づけた。そして特に不幸に見舞われなかったため次に作曲した交響曲に安心して第9番と名づけたとされている。ところが、翌年に『交響曲』第10番を作曲している途中で、マーラーは亡くなってしまったんだ。結局、彼にとっても9番と名づけた交響曲が最後のものに…伝説の真偽はともかく、悲しいことだね。 ⑧理想的な宗教音楽を追求した音楽家 ヨーロッパのルネサンス時代、大さな出来事がふたつドイツで起こった。ドイツの金細工師グーテンベルクによる活版印刷の発明と、ルターによる宗教改革だ。腐敗したカトリック教会に対してルターは「プロテスタント」と呼ばれる新しい宗派を起こした。ルターはラテン語だった聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語訳聖書は新しく登場した活版印刷によって広く民衆に読まれ宗教改革を成功に導いたんだ。対してカトリックの総本山であるイタリアのローマでは反宗教改革が起こり宗教会議ではプロテスタントに対する対抗策が盛んに議論された。この頃ローマで活躍した音楽家が、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ。特に、彼が作曲した『教皇マルチェルスのミサ曲」と呼ばれる曲は、宗教会議の要請に従って作曲されたものといわれているね。近年では、パレストリーナはこの曲を会議の前に作曲していたことが明らかにされ宗教会議との関係は伝説であったと結論づけられたんだけど…パレストリーナの音楽は20世紀までに、宗教音楽の理想的な様式と認められてきたことは確かだ。数々のミサ曲やレクイエムで、必ずといっていいほどパレストリーナの多声部様式が使用されているんだよ。 ⑨ 代替の利かない結婚式音楽の定番 ドイツの作曲家フェリックス・メンデルスゾーンが1842年に作曲した「結婚行進曲」は、いまでも結婚式の定番曲。この曲はイギリスの劇作家であるウィリアム・シェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」の劇伴音楽としてメンデルスゾーンが作曲したんだ。「夏の夜の夢」は、貴族の若者たちの結婚をめぐる行き違いと、妖精パックのいたずらが巻き起こすドタバタを描いた喜劇だ。そのなかで「結婚行進曲」は劇の終盤、すべての問題が解決し、めでたく結婚式が執り行われる場面で使われる。そこから実際の結婚式でも新郎新婦の入場曲として広く使われるようになったんだ。ところで20世紀に入り、ドイツでヒトラーが政権を握るとユダヤ人たちは迫害され、ユダヤ人の音楽家やその作品は社会から排除された。メンデルスゾーンもユダヤ家系であったため「結婚行進曲」の使用が禁じられてしまう。ヒトラーはさまざまな作曲家に『結婚行進曲』に代わる結婚式用の曲の作曲を依頼したといわれているが…あらゆる作曲家が「メンデルスゾーンの『結婚行進曲』を超える結婚式の曲は作れない」と断ったそうだ。それほど、この曲は結婚式音楽の定番として人々の心に深く刻まれているんだね。 ⑩100曲以上の交響曲を作曲したハイドン最後の交響曲 オーストリアの作曲家であるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、生涯で100曲以上の交響曲を作曲し、交響曲というジャンルを完成させたことから「交響曲の父」とも「パパ・ハイドン」とも呼ばれているよ。そんなハイドンが最後に作曲した交響曲が第104番、通称「ロンドン」なんだ。ハイドンの音楽家としての活動は、29歳のときにエステルハージに副楽長として迎えられたことからはじまった。以後、58歳までハイドンは、エステルハーザ宮殿を拠点に活動したんだ。とくに34歳で楽長になってからは交響曲の「実験」に熱心に取り組み、数多くのユニークな交響曲が生みだされたんだよ。ただ、現在でもよく演発されるハイドンの交響曲の多くは彼が楽長職を辞して1791年以降、ロンドンで活動するようになってから作曲されたものなんだ。ハイドンはロンドンの興行主であるザロモンの依頼で12の交響曲を作曲、ロンドンで初演した。ザロモンに頼まれて作曲した12の交響曲は「ザロモン交響曲」や「ロンドン交響曲」と呼ばれている。「交響曲」第104番が「ロンドン」の通称で呼ばれるようになったのは、ハイドンの死後のことだ。この曲はハイドンの最後の交響曲であると同時に、若きベートーヴェンにも影響を与えたことから特別にニックネームが与えられたのだろうね。