夕暮れが照らす公園は、サッカーではしゃぐ子供たちの声で沸いていた。 「今日も長い一日だったなぁ。」 肩の荷を下ろすように深呼吸をしたあと、仕事で疲れた体をベンチに下ろした。 どこか懐かしい風景だった。そうだ、父と別れた日もこんな夕暮れ時だった。 父はいわゆる普通の会社員だった。それでも私にとっては優しくて面白い自慢の父だった。 しかしそんな父は突然姿を消してしまった。私が小学5年生の時だった。 学校から帰ると、「探さないでください」と置手紙が置いてあった。 母も私もあまりに急のことで、困惑するばかりだった。 日々の生活に追われながら、父が消えたことに慣れるしかなかった。 学校では、父がいなくなったことが原因でクラスメートからいじめられた。 「お前の父ちゃん、逃げたんだろ?」 と冷やかされ、その度に心が傷ついた。 いじめられる日々は、私の心を少しずつ蝕んでいった。 授業中も、周りの視線が気になり、集中できなかった。 休み時間になると、また何か言われるのではないかと、恐怖に怯えた。 そんな毎日が続く中、私は次第に孤立していった。 悔しさと寂しさで涙を流す日々だった。 家に帰っても、母には言えなかった。 母に心配をかけたくなかったし、自分が弱いと認めるのが怖かった。 やるせない気持ちを紛らわすために、アルバムを開き父との思い出を振り返った。 父と過ごした幸せな日々を思い出しながら、心の安らぎを求めた。 動物園では私の小さな手を握りしめながら、一つ一つの動物について詳しく説明してくれた。 「見て、あれがキリンだよ。首が長くて高いところの葉っぱを食べるんだ。」 「ほんとだ!あんなに高いところまで届くんだね。」 「うん、キリンの首はすごく強くて、頭を振って敵を追い払うこともできるんだ。」 「えー、そんなに強いんだ。キリンさん、かっこいいね。」 父は、私が興味を持つたびに嫌な顔せず笑顔で教えてくれた。 海水浴に行ったときは、波打ち際で砂の城を作ったり、体を砂で固めて動けないようにしたりした。 「お父さん、見て見て!大きな城ができたよ!」 「すごいな!お城の門もちゃんと作ったんだね。これなら敵も入ってこられないぞ。」 「そうだね、ここに旗も立てて、もっとかっこよくしよう。」 「よし、それじゃあ旗を探しに行こうか。一緒に見つけよう!」 父が見せてくれた笑顔は、まるで昨日のことのように鮮明だ。 父がいなくなってから、母は私が不安にならないように一生懸命だった。 私が中学生になり、高校受験を控えた時だった。 学費や塾代がかさむ中、母は 「あなたが希望する学校に行けるよう、母さんは何でもするわ」 「あなたが好きな道を歩きなさい」 と気丈に振る舞っていた。 私が高校生になって、進路を決める重要な時期がやってきた。 幼い頃から機械や技術に興味があった私は、エンジニアリングの道に進みたかったが、大学進学には多額の学費が必要だった。 母さんにこれ以上迷惑をかけたくなかった私は、進学を諦め地元のスーパーに就職することにした。 「母さん、高校卒業したら働くことにするよ。」 「どうして?あんなにモノづくりの仕事がしたいって言ってたじゃない。」 「これまで母さんに育ててもらったから早く親孝行がしたいんだ。」 「何言ってるの。本当の親孝行っていうのはね、あなたが本当にやりたい道に進んで、楽しく人生を送ることなのよ。その選択は本当に自分がしたいことなの?」 母の言葉に一瞬たじろいだ。 「本当は大学に行って勉強してみたいんじゃないの?」 「そりゃそうだけど、お金が。」 「心配しないで。母さんもっと頑張るから。」 それから母は、二つの仕事を掛け持ちして、私のために頑張ってくれた。 彼女の努力を無駄にしないよう、私も大学入試に向けて一心不乱に勉強に打ち込んだ。 母の助けもあり、無事に第一志望の大学に合格した。 就職活動で、念願の企業から内定の通知が届いた日、私は母に真っ先に報告した。 母は涙を浮かべながら 「本当に頑張ったね。あなたの努力が実ったんだよ」と言ってくれた。 その瞬間、これまでの母の苦労が全て報われた気がした。 これからは母に少しずつ恩返しができると思った。 そんな母も、2年前職場で急に倒れこの世を去ってしまった。 結局私が母にできたことは、毎月のわずかな仕送りだけだった。 日々、育ててもらった恩義と、何もできなかった無力感に苛まれる一方で、 いつかどこかで父に会えるのではないかという淡い期待が、心の片隅に常にあった。 父の愛情を感じることができたあの頃に戻りたいと、切に願っていた。 父がいなくなってから流れた月日は、私を強くもしたが、同時に心に大きな傷を残した。 母の苦労を知り、少しずつ自分も成長していったが、父への想いは消えることなく続いていた。 私の心には、父に対するさまざまな感情が渦巻いていた。 愛情、憎しみ、そして深い悲しみ。 父がいないことで感じた孤独感や、母と二人きりで過ごした苦しい日々。 それらすべてが、私の中で一つの大きな思い出として積み重なっていた。 不意に足元へボールが当たり、はっと我に返った。 どれだけ時間がたったのだろう。 鬱屈とした思いをボールに込め、子供たちに蹴り返した。 そろそろ帰るか。公園の時計台は18時半を指していた。 鞄を手に取り、公園を去ろうとしたちょうどその時、1人の男性が公園に入っていった。 少し疲れた顔をしていたが、その顔にどこか見覚えがあった。 まさかと思いながらも、私は目を離せなかった。 彼は薄汚れた服を着ていて、持ち物もボロボロのバックだけだった。 髭も伸び放題で、風に吹かれる度に髪が乱れる。 そんな彼の背中を見つめながら、心の中で何かがざわつくのを感じた。 彼は公園の奥の方まで歩いていくと、古い噴水の縁に座り、おもむろに煙草を吸いだした。 その様子を遠くから見つめていると、子供たちが近づいてきて、彼にちょっかいを出し始めた。 「おじさん、何してるの?ここは僕たちの遊び場だよ!」 「そうだそうだ!あっちいけー!」 彼は無言で子供たちを見つめていたが、突然、噴水の水を手ですくい、器用に高く放り投げた。 水は陽の光を浴びてキラキラと輝きながら、アーチを描いて子供たちに降り注いだ。 「わぁ!つめたい!」と、一人の子供が驚いた様子で叫んだ。 その光景を見て、私は幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。 あの古い噴水で父と遊んだ日々 。父が同じように水を使って遊んでくれたことを思い出した。 「昔こんな風に、一緒に遊んだっけ…」 父はいつも休みの度に、私を連れてこの公園に来てくれた。 公園の古い噴水は、私たち親子のお気に入りの遊び場だった。 噴水の水は冷たくて、夏の暑い日には最高の遊び場だった。 父は両手で水をすくい上げると、「いいか、よく見とけよー」と言ってそれを高く放り投げた。 水は太陽の光を受けて、キラキラと輝きながら空中で弧を描き、虹のように美しい光の帯を作った。 「わぁ!お父さん、すごい!」私は目を輝かせながら叫んだ。 「ほら、お前もやってみろ」と、父は笑顔で私に言った。 「うん、やってみる!」私は父の真似をして、水をすくい上げて放り投げた。 しかし、思うように高く上がらず、ただ手元でバシャバシャと水が飛び散るだけだった。 「大丈夫、練習すれば上手くなるよ」と、父は私の頭を優しく撫でた。 その手の温かさと安心感は、今でもはっきりと覚えている。 その光景が今目の前に重なった。 気が付くと私の体は勝手に彼の方へ向かっていた。 近づくにつれて、どんどん忘れかけていた父の面影が思い出されていった。 手を伸ばせば届きそうな距離まで近づいたその時、彼の右手の甲にある特徴的な傷跡が目に入った。 「間違いない…」私は心の中で確信した。 あの傷跡は、子供のころ私と喧嘩した時にできた傷だ。 心臓が高鳴り、涙がこぼれそうになった。 「お父さん?」という言葉が、口をついて出ていた。 彼の目も驚きで見開かれた。 彼こそ、私の父だった。 「…ゆうた?」彼の声が震えていた。 それを聞いた瞬間、涙があふれ出した。 私の名を呼ぶその声は、間違いなく父のものだった。 「お父さん!本当にお父さんなの?」私は声をあげ、父に駆け寄った。 父は私を抱きしめ、涙を流していた。 長い年月が経っても、父の腕の温もりは変わっていなかった。 「ずっと会いたかった…ごめんな、寂しい思いをさせて」父の声は、深い悲しみと後悔が滲んでいた。 しかし、私にはそんなことはどうでもよかった。 大切なのは、今ここに父がいるという事実だった。 私たちはしばらく言葉を交わさず、ただ抱きしめ合っていた。 やっと気持ちが落ち着いたところで、私は父に話しかけた。 「お父さん、どうして突然いなくなったの?何があったの?」 私の声は震えていた。 父は深い息をつき、そして話し始めた。 「ゆうた、おまえにとってはとても辛かっただろう。本当に申し訳ない。でも、どうしてもそうしなければならなかったんだ。」 「どうして?」 私は涙を拭いながら聞いた。 「実は、友人の借金の保証人になってしまってな…それが原因で、莫大な借金を抱えることになった。家に迷惑をかけたくなくて、逃げるしかなかったんだ」 父の声には深い後悔と苦しみが込められていた。 私は驚愕しながらも、理解しようと努めた。 「じゃあ、お父さんはずっとその借金を返すために…」 父はうなずき、続けた。 「そうだ。彼が逃げたせいで、私が全ての責任を負うことになった。家族に危害が及ぶことを恐れ、何も言わずに去るしかなかった。お前たちに直接伝えることができなかったのは、本当に辛かった。毎日、お前たちのことを思い出していた。」 その言葉を聞いて、私の胸の中で怒りや憎しみが徐々に和らいでいくのを感じた。 父が私たちを守るために、自らを犠牲にしていたことが分かったからだ。 「でも、どうして今まで戻ってこなかったの?どうして連絡をくれなかったの?」 私は問いかけた。 「ずっと戻りたかった。でも、借金がまだ残っていたし、お前たちに迷惑をかけるわけにはいかなかった。毎日、いつかまた家族として一緒に過ごせる日が来ることを夢見て今まで生きてきた。」 父の声は再び震えていた。 私は父の言葉を聞きながら、自分自身の気持ちと向き合った。 父のいない日々は確かに辛かったが、彼が私たちを守るために犠牲を払っていたことを知り、心の奥底から段々わだかまりは消えて行った。 長い年月を経て、ようやく父と再会できた喜びが胸に溢れた。 「ありがとう、お父さん…本当にありがとう。」私は泣きながら父に感謝の気持ちを伝えた。 父は私を優しく抱きしめ、 「辛かったよな、本当に辛かったな」 と涙ながらに答えた。 「お父さん…借金はもう、大丈夫なの?」 私は父の手を握りながら尋ねた。 父は頷き、優しく微笑んだ。 「ああ、なんとか全額返し終わったよ。」 父との再会を果たした私は、そのまま公園のベンチに父を誘い、二人で腰を下ろした。 夕暮れの静かな空気の中で、私たちはじっくりと話を始めた。 話すべきことは山ほどあった。 「お父さん、ずっとどうしてたの?」 私は興味津々で尋ねた。 父は少し遠くを見つめながら答えた。 「最初は本当に辛かったよ。友人の借金を肩代わりして、一文無しになってしまったからね。行くあてもなく、ただ働ける場所を探してさまよっていたんだ。」 「どこで働いてたの?」 私はさらに聞いた。 「工事現場や廃品回収、何でもやったよ。家を借りるお金もなかったから、公園や駅のベンチで寝ていた。だけど、お前たちのことを思い出すたびに、どうにかして頑張ろうと思えたんだ。」 父の目に一瞬涙が浮かんだ。 「そんなに辛い思いをしていたんだね…」 私は父の話を聞きながら、胸が痛んだ。 「お前たちには苦労させたくなかったんだ。だから、自分一人でどうにかしようと思った。でも、毎日お前たちのことを思い出していたよ。母さんには本当に申し訳ないことをした。」 「実は、2年前に亡くなったんだ。でも母さんは本当に強かったよ。お父さんがいなくても、一生懸命働いて私を育ててくれた。でも、裏ではお父さんのことをいつも気にしてた。」 私は母の姿を思い出しながら言った。 「そうか…母さんには感謝しかないな。こんな無責任な夫を持って、どれだけ辛い思いをさせたことか。」 父は深く頭を垂れた。 「お父さん、もうそんなことは気にしないで。それに、お父さんのことを誇りに思っている。どんな状況でも家族を思ってくれていたことが分かったから。」 私は父の手を握りしめた。 父も私の手をしっかりと握り返し、深い息をついた。 「ありがとう、ゆうた。お前がそう言ってくれるだけで救われるよ。本当にこれまで頑張ってよかった。」 話すことで、お互いの心の傷が少しずつ癒されていくのを感じた。 「お父さん、これからどうするの?」 「行く当てもないし、もう先も長くないから、この場所でお迎えが来るのを待ってるんだよ。」 「何言ってるんだよ!これからは一緒に、暮らしていこう。、天国の母さんもそれを望んでるよ!」 私は決意を込めて言った。 「こんな最低な父親なのにまた家族として迎え入れてくれるのか?」 「当り前じゃないか!お父さんは僕の、世界でたったひとりのお父さんなんだ!もう一度、幸せな時間を作っていこう。」 「そうだな、大切なのはこれからだ。」 父の声には、希望と決意が込められていた。 こうして私たちは再び家族として歩き始める決意を固めた。 私たちの偶然の再会は、運命の悪戯かもしれない。 しかし、それが私たちに与えた希望と喜びは、何ものにも代えがたいものだった。 失った時間を取り戻すことはできないが、これからの時間を大切に生きていこうと、心に誓った。